Street Dance 旭川史

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皆様こんにちは、こんばんは!!代表の宮崎です。
本日のトラマガは宮崎の主観で見る【ストリートダンスの旭川史】を綴りたいと思います。
見所はそう!!

あくまで主観であるという所です(´Д` )
様々な情報を網羅する訳でもなく、何故「全国の一般社会人」向けではない【旭川史】を・・・
何故今なのか・・・

それは・・・

少し思う所がありましてね(´・_・`)

それでは参りましょう!!Readyゴー!!

宮崎少年期〜全てはここから〜

ここに画像の説明
1983年7月30日・・・映画「フラッシュダンス」が日本で上映される。ブレイクダンスを踊るシーンが流れ、ラストには主人公「アレックス」がバックスピンを回る!!瞬く間に日本中でブレイクダンスが大流行した・・・らしい。
当時旭川にもブレイクダンサーがいたと思うが、宮崎の行動範囲は自宅と幼稚園を往復するだけであった為、その道中にストリートダンサーは確認できていない。
エピソードとしては「帰り道、木の実を取り帰宅後母にしばかれる」である。

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1990年・・・「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」番組内で【高校生制服対抗ダンス甲子園】第一回が放送される。1996年の番組終了まで様々なスターを輩出し、第二次ダンスブームの火付け役となった。
当然宮崎も夢中になり、踊りだす。主な活動場所は学校の廊下。
中学生の時、ウィンドブレーカーを全身にまとい、スキー用グローブを付け真冬の路上でウィンドミルの練習を始める。ストリートダンサー宮崎の誕生である。
他にもストリートダンサーは居たと思うが、宮崎の行動範囲が自転車移動圏内であったため、確認できていない。
エピソードとしては「バックスピン回転中、臀部に当たるドッジボール」である。

宮崎青年期〜人生を変えた〜

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1995年〜1998年・・・宮崎は高校生。移動手段は同じでも行動範囲は町(Town)から市(City)へ広がっている。夏の時期にはチラホラとストリートダンサーを目撃するようになる。とはいえ学校祭に向け練習している高校生がほとんどで大人のダンサーを見るには【それなりの場所】へ行かなければならなかった。
この時期は「ブレイクダンス格好いい!!」から「HIPHOPカッケー!!」への移り変わりが最高潮であった為、バギーのぶっといデニムを小遣いで購入し、見学旅行ではレコードを買い漁り、地元の先輩ルートでDJ機材を手に入れたり、壁にスプレー吹きかける高校生がたくさん居たのだ。
ちなみに当スタジオにあるTechnics SL-1200MK3(レコードターンテーブル)は当時の周りもの。
ラッパーはすでにCREWで活動してたイメージ。
ダンサーはと言うと少ない情報をみんなで共有し、なんとか形にしてたような・・・
男子高生宮崎くんに衝撃を与えたテレビ番組がある・・・
「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」通称「生ダラ」でROCK STEADY CREW JAPANにブレイクダンスを習う2時間特番がたった一回だけ放送された。上京を決意させた番組だった。
エピソードとしては「太い紐、手芸屋で買い靴紐に」である。

21世紀へ〜未来へ〜

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1999年・・・宮崎東京へ。地元旭川でダンス環境を満足に整えられなかった宮崎は武者修行として上京することとなる。テレビで見て憧れていたダンサーと一緒に踊る機会を授かり、刺激的な毎日を送る。
2000年ミレニアムイヤーを迎え、当時よく見ていたテレビ番組は「RAVE2001」。
旭川出身の高校生ダンサー「でんか」に衝撃を受けた。
「こんな奴らが居たんだ・・・・」と。この「でんか」我がTracksのインストラクターSUZUが所属するチームで、グランドチャンピオンに昇りつめた強者である。

東京で生活する間、たまに帰郷した際、「REALIZE」や「隼」と言ったストリートダンスチームが存在することを知り、共にセッションをするように・・・
その頃には地元旭川がストリートダンサーで溢れ、活気付いていた。

2002年から本拠地を地元旭川に移し、2006年にトラックスストリートダンススタジオ宮崎を開講。
たくさんの仲間達に恵まれ、今日に至る。

増えたり減ったりを繰り返しながら、様々なことにトライ。
その中で行われる地元旭川ダンスの祭典がオドリバ
6月17日、18日旭川駅前にて開催。

翌週24日、25日には自分の新たな試みダンステ

こちらはクラウドファンディングで資金を募っておりますが、残された時間は2日間です。
みなさんご協力お願い致します。

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